今日は「ソクラテスの弁明」を読んで一人で議論したことを書きます。
ソクラテスと言えば中学校の歴史の教科書にも出てくる人物ですね。
私は知らないことを知っている(無知の知)
で有名な哲学者です。

ちなみに、「ソクラテスの弁明」はソクラテスが書いたものではなく、不敬神の罪で死刑判決が下される裁判でのソクラテスの民衆に対する弁明を弟子のプラトンが記録したものとされています。
さて、前置きはこれくらいにして、ここからは僕の一人議論を書いていきます。
「ソクラテスの弁明」ってどんなことが書いてあるんだろう?
「ソクラテスの弁明」を読んだ人の感想を見たい!
という方は是非読んでいってください!

私はこの人よりも知恵があるようだ。
つまり、私は、知らないことを、知らないと思ってるという点で
ソクラテスが「無知の知」という考えを持っていた根拠になる一節です。
「ソクラテスの弁明」にこの一節が書かれているからソクラテスといえば「無知の知」というイメージが定着したんでしょうね。
さて、「無知の知」とは「知らないことを知っている」という意味だと、中学校のときに習いましたが、この本の訳では
知らないことを知らないと思っている
という訳になっています。
これについて訳者の解説で次のように書かれていました。
厳密にいえば、「知る」とは、明確な根拠をもって真理を把握しているあり方を指し、「知っている者」は、その内容や原因を体系的に説明できなければならない。
(中略)
日常ではあまり重要とは思われない、この「知る・思う」の明確な区別こそ、「知を愛し求める」(フィロソフェイン)営みとしての「哲学」の出発点となる。
それは、ソクラテスのように自分がはっきりと「知らない」という自覚を持つ場合にだけ、その知らない対象を「知ろう」とする動きが始まるからである。
「無知の知」を世間のイメージ通り「知らないことを知っている」と表現すると、「知らないということ自体を完全に理解している」という意味になるが、知らないということを完全に理解してしまっては、哲学(知ろうとする営み)が始まらない。
「無知の知」を「知らないことを知らないと思っている」と表現することで、まだ知らないということ自体を知る余地が残る。
知らないと思うことで、いつでも哲学の出発点に立てる。
「無知の知」の訳し方によって「無知の知」のイメージが大きく変わりますね。
僕は中学生のときから「無知の知」は、悟りにたどり着いた状態、ゴールのような状態だと思っていました。
しかし、「無知の知」はいつでも学びの出発点に戻してくれる便利な考え方でした。
僕は何かを勉強するとつい、調子に乗って何かを知ったつもりになって、色んな人に話したくなります(笑)
でも、知ることに終わりはないんですよね。
どの分野でも第一人者として活躍されている方がいて、そんな方であってもその分野の研究をやめないんですから。
僕は勉強して何かを知った気になっているときは、図書館に行くと我に返る感覚があります。
図書館にズラーッと並んだ本を見ていると、その知を昔から体系づけてつなげてきた先人たちと、その知識自体に畏敬の念が生まれるんですよね~
ご一読ありがとうございました!