この記事ではローマ五献帝時代の最後の皇帝、マルクス・アウレリウスが書いた日記である「自省録」から「興味深い!」と思った内容を僕の感想混じりに書いていきます。
誰か悪事をなしたのか?いや、その人は自分自身に悪事をなしているのだ。そのこで、君に何か起こったとでもいうのか?(4-26)
僕は教員をしているのですが、子どもの悪事にイラついてしまうことがしばしばあります。
・○○ちゃんの外見をいじったあだ名をつける。
・学校から貸し出されたタブレットで授業中に遊んでいる。
・時間を守らず、人の時間を奪っておいて、それが当然だと思っている。
「なんでそんな感情的に行動するねん。もっと理性働かせられんのか。子どもとはいえ、ヒトやろ??」
とムカついてしまう。
子どものこのような感情的な行動を見て、イラついているわけですが、そんな事でいちいちイラついていたら、教員やってられないんです。
そこで、ローマ皇帝からのありがたいお言葉。
「誰かが悪事を働いたとしても、あなた自身に何か起こったとでもいうのか?」
たしかにそう。
直接的に僕自身に悪事を働いてくるわけではないし、仮に僕自身に悪事を働いたとしても、それをどう受け取るかは僕自身で決められること。
僕に悪事を働いてきたとしても
「なんやあいつ。ほんまにムカつく。関わらないでおこう」と突っぱねることもできれば、「何か満たされない思いがあるのかな?」と相手を思いやることもできる。
どちらの方が心穏やかに過ごせるかと言われたら後者。
怒りの感情は誰かから生み出されたものじゃなくて、どんなときも自分の内側から生まれるものだし、いわば自分のせい。
悪事をなす子どもはその悪事によって、周りからの評価を下げて、社会で生きづらくなるうえに、自分の「よくありたい」という思いにウソをついているので、自分自身をおとしめていることになる。
教員でなければ、そんな子どもを見たら「大変そうだな」とあわれみの気持ちを持っておしまい。放っておこう。でいいと思う。
でも、教員だとその子どもがこれ以上自分を傷つけないように、その哀れな子に関わっていかないといけない。
(少なくとも仕事中は。)
この仕事の性質がどうも合わない。
僕は「人のことに干渉しない」がモットーなので、子どもと深く関わっていくのがしんどい。
でも、こうやって「子どもと関わるのしんどい」と口に出すと、なおさらしんどくなるし、言動と行動が一致してしまうなーと思ってモヤモヤ。
それに、悪事を働く子どもばっかりじゃないしな。
見ているだけで心が洗われるような子どももいるしな。
そっちに目を向けていこう。
でも、好き嫌いに関わらず、分け隔てなく接する必要があるのが教員だしな。
やっぱり教員辞めようかしら。
何の話や。
ご一読ありがとうございました!
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