数学教員の一人議論

とある数学教員が頭の中の一人議論を形にします。

なぜお供え物をするのか?

お盆が近づいて来ましたね。

昨日、親に「仏壇にお供え物してね」と言われて不思議に思った。

これは誰の何のためにお供えをするのか?

私は、お供えもの・念仏・お墓参り等の死者を対象にした儀式に意味を感じていない。

しかし、これだけ世間に広まっている風習であるからには何かしらの意味があるのだろう。

それを今回は一人議論していく。

 

 

誰のためにお供え物をするのか?

1.故人のため

 故人にお供えものを渡すという風習だから、当然故人のためという人が多いだろう。

しかし、あえて当たり前のことを言いたい。

故人はこちらの世界のものを食べないから意味ないじゃないか。

と言うと、「供えるものは重要じゃない。故人を忘れていないという気持ちを表すことが重要なのだ」と言われるのだろうか。

しかし私は、生物はみな死んだら無になると思っている。

ちょうど寝ているときのような無意識状態になって、そこから永遠に目覚めないと思っている。

だから仏壇やお墓に供え物があったことなんて認知できるはずがない。

「いやいや、死者は生まれ変わるのだよ」というのなら、それこそお供え物なんてしても故人のためにはなってない。

もうすでに生まれ変わっているのなら、お供え物がされたことなんて認知できるはずがないのだから。

 

2.自分のため

 故人のためにはならないとするのなら、お供えものをする人自身に何か恩恵があるのかもしれない。

「自分のためにお供え物をしています」と言っている人の理屈の方がまだ分かる。

例えば、

お供えものをすることによって故人とのつながりを感じることができる。

故人を忘れたくないという気持ちをお供え物で表現することによって、故人がそばについてくれているような感覚を得ることができて安心するのだろう。

他には、

お供え物という風習に従うことで現世の人たちとのつながりを強化できる。

平たく言えば「他の人もやっているからお供えものをする」というものだ。

自分だけやっていないとやっている人から「なんであの人はやらないの?」と白い目で見られるので、それを回避するのだ。

 

おわりに

「ご先祖様がお盆に帰ってくる」と信じることや「お供え物によって故人に気持ちを伝えることができる」と考えるのは人の自由だ。

事実かどうかではなく、そう考えることでその人がより良く生きられるかが重要だからだ。

ただ、その風習や考えを人にも押し付けるのはするべきではないと思う。