数学教員の一人議論

とある数学教員が頭の中の一人議論を形にします。

ひねくれた部下を褒めるとこう思われますよ

みなさんこんにちは。

タイトルにありますひねくれた部下とは僕のことです(笑)

 

僕は教員をしているのですが、今日はモヤッとすることがありました。

それは隣のデスクの先生に褒められたから。

具体的に説明していきます。

 

私は学級委員会を担当しているのですが、今日は学級委員会主催の学年集会がありました。

最近学年がだれてきているので、いい形でこの学年を終えることができるように学年集会を開こうと学年の先生たちで決めました。

だから、学級委員会主催と言いながらも実際はやりたいと言い出したのも教員だし、その準備や計画をするのもほとんど私。

できた原稿やスライドを「はい、読んで」と学級委員に指示するだけです。

 

こんなやらされ感満載の学年集会を学級委員の人はどう思うんだろう?

と思いましたが、案外真面目に頑張ってくれました。

さすが学級委員。

 

僕の結構な準備と計画、そして学級委員の頑張りもあって、結構いい雰囲気の学年集会になり、子どもたちも学年の先生方も満足そうでした。

私は子どもにあれこれ指示して動かすのに苦手意識があったので、この学年集会を僕がメインとなってやっていくことが決まったときは

「めんどくさい。めっちゃ嫌や…」

と思いました。

でも、ただでさえやることがいっぱいあるこの学年末に一時間の授業時間を学年で揃えてとるからには、「何の意味もなかった時間」となるのは避けたかったので、準備は僕なりに頑張りました。

 

結果は成功。

苦手なことを成功させたという成功体験も積めたし、「やりきった」というちょっとし達成感もありました。

 

しかし、ここからがモヤッと話。

隣のクラスの先生から

「いい学年集会やったなー。先生の集会の流し方がめちゃくちゃ良かった。子どもたちにもよく伝わってた」

って言われたんです。

 

ほめているだけやのに何にモヤッとするん?

って思われるかもしれませんが、僕はひねくれているので

「褒めて俺をどうしたいの?」

って思ってしまったんですよね。

 

ベストセラー本の「幸せになる勇気」にも書かれていましたが

人が誰かを褒めるときって少なからず

「この人を自分の思うように操作しよう」

っていう気持ちが働いていませんか?

 

例えば、僕が子どもに

「お、掃除を頑張っていて偉いねー」

と褒めるときって

(掃除を頑張っていることを褒めて、これからもこの子に積極的に掃除をさせてやろう。教室をきれいにするために。クラスの雰囲気を良くするために。)

っていう思惑がありそうです。

 

だから、隣のクラスの先生に褒められたときに

「俺を褒めて、子どもを動かすことにやる気を持たせて、この先生にどんなメリットがあるんだろう?」

と思ったんですよね。

恐らく、この人は自分のおかげで成長した!って思えたら気持ちがいいからじゃないかな。

 

その先生は、僕が自分の都合のいいように動くことを狙ったのかもしれませんし、意識はしていなくても無意識の中に「僕を操作したい」という気持ちがあっただけかもしれませんし、純粋な気持ちで褒めてくれたのかもしれません。

実際はどうなのかを知ることはできません。

でも、「褒める」ということをこうやって捉えるひねくれ坊主もいるんだってことが誰かに分かってもらえたら嬉しいです。

 

「褒める」より「感謝する」の方がいいと思う。

まぁ感謝するときも「相手を気持ちよくさせて、自分の思い通りにするために言っていないか?」ってことは気を付けなければいけないですけど。